第22回平和のための戦争展・喜多方開催!
7月3日(日)〜6日(水)の4日間、喜多方市厚生会館に於いて「戦争展」が開催され、700名(うち450名が小中高生)が来場しました。
今回はステージや会議室で映画上映や紙芝居「辺野古のおばぁ。なぜ起こってるの」「青い目の人形」も上演され、子どもたちは、貴重な展示品、遺品や資料に触れ、戦争の恐ろしさや平和の大切さを学びました。
7月3日(日)午後2時から行われた講演会の主な内容を報告します。
終戦前後の体験から
~学校・生活・新憲法制定…
そして今~(講演資料より抜粋)
1.県立喜多方中学校入学前後~日中戦争期
昭和11年
二・二六事件が起きる。これ以後、陸海軍大臣現役武官制が復活し、軍部が政治の実権を握る。
昭和12年
7月7日・日中戦争開始…連戦連勝の宣伝のもと子ども達は天皇制国家主義教育を受ける。
2.県立喜多方中学校期~太平洋戦争期・終戦直後まで
《戦時教育の特異性》
イ.体錬科(体操・武道・教練)と理数科中心の授業
ロ.学校生活全体の教練化~軍服に準じた制服制帽と軍隊式礼法
教練=陸軍配属将校と助手の指導
学科=軍人勅諭、兵器、訓話等
実技=礼法、射撃、野外演習他
ハ.授業が欠けることが多い…出征兵士の歓迎や戦没者遺骨出迎え、防空演習、援農、工場動員
ニ.職員・生徒の異動が多い
職員~臨時召集令状による入隊他
生徒~軍関係諸学校入校・入隊・志願兵としての中退・戦災や疎開生徒の無条件受入れ等
※生徒の定員500名に対し677名(昭和20年9月)
ホ.毎朝礼時の学校長による戦況報告
《各年度の推移》
昭和17年度( 喜多方中1年生)
○運動会の目玉演目…白虎隊の剣舞と5年生による教練演技/白兵戦
※弁論大会での舌禍事件…ある生徒が「殴る教育」に対し意見を述べ、某有力教師の激怒を買い、進路変更を余儀なくされ、高から海兵へ。その結果、戦没となる。
昭和18年度( 喜多方中2年生)
※勤労奉仕で授業が欠ける事多い。通常の学校行事が消滅。軍事関係部活動開始。
昭和19年度( 喜多方中3年生)
※日本軍の敗退続くが、真実は隠蔽され、玉砕続く。学校生活も急変。
○予科練入隊続出(入隊基準切り下げ)
○海軍予科兵学校・海軍予科経理学校新設
→受験で上京した際に空爆を体験
○年度末から戦災者疎開者の転入生急増
○義務教育8年制の実施無期限延期
中等学校の1年繰り上げ卒業を決定
○10月から学徒通年動員開始
・3年生…町内の岩瀬工場へ
・4年生…川崎市の東芝京町工場へ
・5年生…横須賀市の海軍工廠へ
※4年生・5年生は3月に現地で同時卒業したが動員は解除にならず。
※この頃、空襲警報の発令が多く、放課後や夜間でも町内在住者は学校に駆け付けなければならなかった。
昭和20年度( 4年生・8月15日まで)
○ 本土決戦体制 ~竹槍整備命令も
・4年生は工場動員が解除され、様々な労務(松根堀り・開墾・半地下工場建設他)に従事。
・3年生は学校工場(講堂、元寄宿舎が日立の疎開工場に)に勤務。
《終戦と戦後混乱・大変革》
戦時体制の崩壊と民主化教練
武道の廃止、部活動の改廃、校友会(生徒会)の復活、校内民主化、米軍が視察に~残存銃器押収・校内見回り等
職員・生徒大異動
軍関係学校入校入隊者原級復帰・疎開編入者の帰郷他
3.高校(旧制)・大学(旧制・3年制)期~
自由の謳歌と「二つの世界」の顕在化
①食糧難・極度の物質欠乏・天井知らずのインフレ・生活難・急激な民主化
…労組結成、メーデー他大衆運動等
②自由・自己責任に徹した高校生活学校行事なし~(昭和21年11月3日明治節式典・新憲法公布祝賀式、共に特になかった)
※物質的には極度に貧しかったが最も心豊かであった時期。背後にあったのは…日本の平和・日本国憲法~新憲法は清浄な空気の如き存在!
③大学在学期
昭和24年
9月 ソ連核実験成功
10月 中華人民共和国成立宣言
昭和25年
6月25日 朝鮮戦争開始
7月24日 公然とレッドパージ始まる
8月10日 GHQ指令で警察予備隊創設
→日本再軍備開始
終戦後の日本軍・山西省残留事件
~喜多方市在住の斎藤輝雄氏提供の資料から、
佐藤修二氏(戦争展実行委員)が報告
日本軍山西省残留事件とは、終戦時に中国山西省(省都・太原)に1万人以上の日本軍将兵が現地残留を余儀なくされ、中国内戦に巻き込まれ悪戦苦闘し、多数の戦死者を出した事件です。
しかし一般には、ほとんど知られていません。喜多方市在住の斎藤輝雄氏はその生存者です。
氏より頂いた貴重な資料で事件を説明します。
終戦により、外地派遣部隊は帰国復員することになりました。しかし、山西省駐留の第1軍は、以下の目的達成のためとして、部隊の一部を残留させました。
①第1軍隷下各部隊5万9千人の復員と居留民約4万人の帰国輸送を円滑に実施させるため。
②祖国復興につながる山西省の再建へ協力。
③戦犯容疑者の早期釈放の実現。
そこで、軍の命令により、各兵団から将兵を選抜し特務団を編成。国民党軍の指揮下に入り、人民解放軍と交戦しましたが、昭和24年に4月24日に投降しました。
この間、多大な犠牲者を出した特務兵団将兵たちは抑留され、昭和28年から29年にかけ、ようやく帰国復員しました。
しかし、これらの将兵は明らかに軍命令に従って残留したにもかかわらず、「各人の意志で勝手に残った」とされ、知らぬ間に『現地除隊』の措置が取られていたため、この時の戦死者・戦傷者・抑留から帰国した生存者のほとんどが、国家補償はおろか救護措置を受けられないまま放置され続けています。
この事件は日本の未処理戦争責任問題の一つとして、ぜひ知っておきたい事実です。日本は敗戦までにアジア全域を戦場にしました。その戦後処理に於いて数々の問題を残したまま今に至っています。
各地に置き去りにされた日本人のみならず、現地での数々の加害行為についても私達は多くの事を知らなければならないと思います。
《主な行事・イベントの報告とご案内》
8月1日(月)~9月1日(木)
●ヒロシマ平和行動
8/4㈭~6(土) 広島市平和公園他
●会津坂下町流し踊り参加
8/7(日)19時~20時 会津坂下町中央通り
●飯寺地区盆踊り
8/20(土)19時~ にいでら店・駐車場
●北海道東北地区・組合員活動交流集会
8/31(水)~9/1(木) 宮城県仙台市秋保温泉
※お問い合わせは、組合員活動部・大竹 TEL0241(22)1041 まで
|